『グリーン・ノウ物語3 グリーン・ノウの川』(ルーシー・M・ボストン著、ピーター・ボストン画、亀井俊介訳、評論社、2008)の第9章「ネズミになったオスカー」を中心に

ロンドンの北ケンブリッジ州セント・アイヴス近郊のヘミングフォード・グレイ村に、今もある十二世紀前半のノルマン様式の館(ザ・マナー)。その館を「グリーン・ノウ」と名付け、館から聞こえて来ると言う千年の“声“を聴く館主オールド・ノウ夫人と、館に招かれた子どもたちの目を通して現れる世界を、幻想的、神秘的に描いたグリーン・ノウ物語(1~6巻)。イギリス児童文学の古典といわれています。このシリーズは、豊かな自然を背景として主には館がもたらす時と空間の狭間で、その時空を超えての過去の子どもたちと現在との交錯が描かれ、非日常が日常に、すぐそばにある現実として語られるといった印象を持つ作品だと思います。そのような“館”から離れ、館を取り巻く「川」が主題となり、川の持つ豊饒さ、神秘性を描いているのがシリーズ第三作目の『グリーン・ノウの川』です。その第9章に、カヤネズミが出てきます。
『グリーン・ノウの川』にまず登場するのは、グリーン・ノウ館に夏の間だけ間借りすることになった古生物学者のモード・ビギン博士と食べる事と料理が大好きなミス・シビラ。この二人が、館が二人で住むには広すぎるし「グリム童話に出てくるような家」だからと、「難民児童夏季休暇援助会」に手紙を出して子どもたちを館に招待しよう考えつく。そして、招かれた二人が、オスカー11歳とピン9歳。加えてシビラの姪の娘アイダ11歳の三人だ。三人はすぐに、「ひろくゆったりと流れる大ウーズ川」のとりこになる。そして、日夜問わずの川の冒険が始まる。そんなある日、グリーン・ノウの庭と橋でつながった島に弁当を持って遊びに出かける。そこはハシバミとサンザシの生垣でかこまれた荒れ放題の果樹園で、三人はその草の中に寝そべり草地の生きものを観察し始める。そしてオスカーが「ここに小さな道ができてるよ。まるでネズミの通路のようだ。いま一ぴき歩いているよ。これはネズミの散歩道で、巣までつづいているんだ。茎をのぼって、はいっていったよ」とカヤネズミに気付き、そしてそのネズミは巣で待つ「妻ネズミ」のためにエサを運んでいるのだと言う。三人はアイダの「だれがいちばんじょうずにネズミの巣をつくるか、競争してみましょうよ」の言葉で巣を作り始める。そして、中でも一人カヤネズミの巣づくりに夢中になってしまったオスカーは、草束を積み重ね、中でぐるぐる回り、きゅっきゅと草を巻き込みしている間に、そしてアイダとピンがお腹一杯で草の中でうとうとと夢をさまよっている間に、ついに「5センチの背たけの」オスカーになってしまう。縮んでしまったオスカーを見たアイダは、「オスカーをふみつけないように気をつけてよ」「あの子、かわいいじゃない」と事も無げに言う。そして、オスカーは茎の上にもう一つ巣を作ると言って、あっという間に次のような展開になっていく。「オスカーは草の茎の下に立って、じゅうぶんじょうぶかどうか、ゆすってためしていた。そしてよい茎を三本えらぶと、ふたつめの巣をつくりはじめた」「いまや、ふたつめの巣ができあがり、三本の柱の上にゆられていた。すぐとなりの家のカヤネズミは、鼻をぴくぴくさせながら、不安そうな顔をしてのぞいていた。」その後、「ぼく、おみやげを持って、おとなりさんを訪問しようと思うよ。アイダ、パイをひと切れちぎって、ぼくがおとなりさんの入り口までいったときわたしてくれ」「カヤネズミって、いい連中だよ。子馬みたいに、ぼくの手のひらから食べたんだ。目は手鏡みたいに大きく、あのくすぐったいひげは巣のはしからはしまでとどくんだ。だからアンテナでいっぱいのへやの中にいるようなもんだよ。うしろにさがるとき、それにひっかからないように注意しなくちゃならない。けど、ぼくはポケットのくしでネズミたちの上着をすいてやったよ。連中、大よろこびだった。あおむけに寝ころんで、おなかもすいてくれっていうんだ」
どうでしょう?私がおやっと思ったのは、しっぽのないオスカーは麦の穂先近くまで、どのようにバランスを取ってとなりのカヤネズミの巣まで訪問する事ができたのだろう。カヤネズミ夫妻と二本足のオスカーの3人が巣の中で、グルーミング?パイ(アップルパイ)って言ったらバター、動物性油脂が入っていると思うけどそれをカヤネズミは食べるの?いやいや、イギリスのカヤネズミはパンとか平気で食べるのかもしれない。もし私が全国カヤネズミネットワークに入っていず、カヤ原にも入らず、畠さんのお話も聞いていなかったら、イギリスにはそういうネズミがいて、子どもたちはそんな冒険をしたんだなと思って、これらの部分は軽く読み飛ばしていたのだと思うのです。しかし、知ってしまった今は、これらの展開が少々都合良く見え、「子どもの空想は絶対よ」と、ニコッとしながら言うボストンさんの声が聞こえてきそうで、私は「草はらの豊かさを楽しむ」表現のために、物語の構成をやや引き付け過ぎてしまっているのではないかと思いました。
また、オスカーが小さくなるのは、カヤ原の魔法?でしょうか。私は、ファンタジーには構築性というものが必要だと思うのですが、そしてそれに伴う現実も表現されている事が、物語上のリアリティを生むのではないだろうかと思います。
ある少女のカヤ原そしてカヤネズミいやカヤネズミ研究者との出会いを清々とした美しい文章で描いた作品『土手をかけおりよう!(文研ブックランド)』(あんずゆき作、早川司寿乃画、文研出版、2011)の中に次のような描写あります。
「サヨさんは、しげみを両手でわけるようにしてカヤ原に入っていった。わたしもまねて、あとにつづこうとするけれど、目の前のオギの林はわたしよりも背が高い。もちろん道なんてないから、なれないわたしは、自分の体がちぢんで、草のあいだをさまよっている気になった。」と、あります。―下線市川―(ここに登場する「サヨさん」は、もうおわかりと思いますが畠佐代子さんですね)
実際私もカヤ原に初めては入った時のおそれ、驚きは忘れられませんし、草刈りをしている時など自分の身体が小さくなるような不思議な感覚にとらわれました。身体が小さくなるという事で、思い起こす作品があります。『川べのちいさなモグラ紳士』(フィリパ・ピアス作、猪熊葉子訳、岩波書店、2005)です。この作品で、少女がモグラ穴に入れるぐらいに小さくなるシチュエーションがあります。こちらでは身体が小さくなるまでに日にちを要し、そしてそれへの必然性が段階を追って緩やかに、しかしある予兆を秘めて描かれています。そして身体が変化する事に伴う現実も平行して厳然と表現されていて、私は物語上のリアリティがそこなわれていないと思いました。
さて、小さくなったオスカーは、その後どうなったのだろうかと思いますよね。果たして元に戻れたのかと。ピンが、野にこのままいたいというオスカーをあらゆる危険を話して説得し、自分のポケットに入れて連れ帰ります。その後オスカーは一人で館のネズミの通路を通り、水道管をよじ登り、なんと3階の屋根裏部屋まで行き、その後アイダ達によってベッドに寝かされます。そしてその夜中、目が覚めたアイダが、オスカーの「ぼくも、ちょうどめがさめたところだよ」「でもへんな夢だったな」という言葉と共に元の姿に戻ったオスカーを見つけるところで物語は終わっています。この間もそうですが、草地での夢からさめ、小さくなったオスカーを最初に発見した時も、子どもたちは常に冷静でオスカー自身も含めて皆一様に慌てず淡々と事実を受け入れます。私は、5センチになったオスカーを見ても、びっくりしないアイダにびっくりしてしまいましたが、このような子どもたちを次のように評している文がありました。
「この三人は、児童書によく出てくるような子どもたちではない。話す言葉も、よく読書し考えているおとなのようだし、彼らの友情も理想的なものだし、自分たちの状況もテレパシー的で詩的な理解のし方をする。彼らは隠喩で考え、それを形而上学的に発展させるし、彼らの遊びは、時間と変化と死の危険な神髄へと彼らを導く。」~古きよき静寂の音―ルーシー・ボストンと「グリーン・ノウ物語」シリーズの世界(ヴィクター・ワトソン/田中美保子訳)~『ルーシー・ボストンー館の魔法に魅せられた芸術家』(田中美保子・安藤聡編著、国書刊行会・2022)75Pより。
この文から、作品『グリーン・ノウの川』にみられる表現、特に川面や川からの音、空が、太古を現に今感じているかのような詩的な表現が、思索的な子どもたちの放つ言葉に散りばめられていたのがわかるように思いました。三人の子どもたちの言葉を通して伝わってくるのは、鋭い観察力、写実性に優れた情景描写で、それは、ボストンさんの眼そのものと言っていいのだと思います。
1972年ボストンさん80歳頃の、ある大学での講演の中に次のような箇所がありました。「グリーン・ノウの館を、大ウーズ川のすぐほとりに見つけることができたのは、途方もなく幸運なことでした。」「子ども向けに書いた本の中で、私はこの館用に、過去と伝統を備え、未来も楽しみにしている、古くから続く一族を創りだしました。」「私がグリーン・ノウの館を見つけたのはわずか30年前なのですがー中略―1130年ごろから、ほとんどまったく変化していないままでした。」「ところが、この20年の間に、国中がそうしたものをズタズタに切り裂いてきたのです。―中略―まるで車のような船が川の流れを往来しては互いのディーゼルエンジンの排気ガスを吸い込んでいるしまつで、そのあげく、船の騒音のおかげでアカライチョウの巣には卵が1つもなくなってしまいました。」「開発とは、常に、もっともおもしろくない標準化のことです。個々の想像性や想像力を消滅させることを意味します。公害は空気や海や川や大地にとどまらず、殺虫剤や除草剤は鳥たちや野草を除去するにとどまりません。そうしたものは、人間の心も汚すのです。」 ルーシー・ボストンからの伝言〈講演録〉ルーシー・ボストン/田中美保子訳)『ルーシー・ボストンー館の魔法に魅せられた芸術家』(田中美保子・安藤聡編著、国書刊行会・2022)より
私は、ボストンさんのこの文を読んだ後、いぬいさえこさんの著書『くさのみち』(いぬいさえこ著・高橋佳孝監修・リバネス出版・2008)での最終章の文を思い起こしました。紹介させてもらいます。
つながる、くさのみち
ちょっとだけ立ち止まって考えてみる。
環境破壊ってなんだろう。
これって人が自然を手に入れることで
おこるのかな。
でも草地のように
人がいなくなることで、消えてゆく自然もある。
大切なのはきっと、自然とのかかわり方。
カヤネズミを守ることは、草地を守ること。
草地を守ることは、
生活の中で自然と積極的にかかわりあうこと。
それは人とのふれあいや、
持続性を手に入れること。
この道の中には、
たくさんの楽しいこと、
気持ちのいいことが
きらきら散りばめられている。
私はカヤ原で、不思議な香りに酔いしれた?瞬間があります。草刈りの最中、テントウムシだったかが目にとまり、はさみの手を休めてじっとしていた時でした。なんとも言えない清潔な香りでした。かいだことのないにおいです。幾層にも折り重なった草ぐさや微生物のそれらが織り成す地中からの匂い、はるかな昔からの香りだったのでしょうか。私は草はらの生きものたちはこんなにきれいな所に住んでいるんだ、なんと清浄なことなのだろうと思いました。野の真理、野の真実という言い方があるとしたら、それはそれらに触れた瞬間だったのかも知れないと今になって思うのです。
いぬいさんのおっしゃるように、草はらにはたくさんの楽しさ、気持ちのいいことが散りばめられています。またボストンさんの言う「個々の想像性」を培う所でもあると思います。そしてあのように編まれて美しいカヤネズミの巣には、人間を引き付け、ファンタジー性を呼び起こす何ものかがあるのだと思います。草地はやっぱり魔法の地ですね!
次回は、イギリスpartⅡとして、今回とはもう少し違った形で出てくる「カヤネズミ」のお話をさせていただければと思います。
市川 澄子(いちかわ・すみこ、京都府在住)


